斜塔へ の巻 

Travel Abroad

私のしている旅行は、小田実や沢木耕太郎のしたような貧乏旅行でもなく、一方で王侯貴族のバカンスのようなものでもありません。私が立ち寄った場所はいわゆる旅行雑誌でカバーされているものが多いです。これを書いている今も何が嬉しくてこれを書いているかはいまいち分からずに書いています。最後まで行き着くかもよくわかりません。

もしこれが誰かのとって何か役に立つとすると、本当にどこにでもいるような会社員が、仕事を辞めるでもなく、休みとお金をそこにエイっとふんだんに使って、結局その旅行、旅行の中に何を思い、何に感動し、何を達成し、逆に何にむなしくなるのだろうということだろうと思います。

私はそれについては、この中で正直に書いていこうと思います。旅が何かを変えるのか? ある老夫婦の「あなたみたいに多くの国を回ってみたかったわ」というその言葉に、1つの回答をしようと、いま書きながら準備をしているつもりです。

ピサの斜塔にやってきました。私が子供の頃、何時間遊んだかわからないグラグラゲームのモデルです。ピサの斜塔はその塔を登るにつれて、その傾いている分、平衡感覚を失っていくのを楽しむのもよし、でも私なら、塔の上にいくつも吊るされている鐘が素晴らしいと言います。定刻になると、この鐘が鳴ります。この鐘の荘厳な音色が走っていったあと、塔の上を流れる風の音だけが残ります。これがしみじみとしています。

私は子供の頃、どこかの電球が切れかかってチカチカしているときに、自分が現実の世界にいる感覚を得ました。そう、映画「インセプション」の回るコマのようにです。

この鐘が鳴った後に残される塔の上を流れる風の音にも同様のものを感じました。サハラ砂漠の風にも、アイスランドの氷河を海に流す風にも、そして日本も含めて、いくつも登ってきた山の上で聞く風を聞いて、私は現実の世界にいる感覚を取り戻します。それは鼻を何かで強く打ってツンとしているときに思い出す、あの現実感とは違うものです。現実を外から追認している感覚があります。

私はさっきまで、ロンドンの家でつまらない計算をしていました。60歳までの資産推移を作成していました。まだ20年以上も先のことです。みごとなまでの狸の皮算用です。ここに出てくる数字に、一瞬、満足感を得て、でも、それはすぐに霧散していきました。それはその計算が狸の皮算用だからではないです。数字の残高が生きている間に枯渇しないことを私は確認したかったのかもれませんが、これはどういう考えでのことであろう?とすぐに分からなくなってきたのです。エクセル計算上は、右に行くにつれ、働いている間は資産は増えていくことになっていますが、実際には毎年、毎年、大切な1年が過ぎ去っていくのです。本当に横に伸びていくべきなのは数字の増加ではないと。ここにはやりたいことが実現していく様と、今を本当に噛み締めている残像が残っているべきだと。ここには家族との時間があるべきだと。

誰もが、自分はちゃんと生きているのだろうか?と思います。「ちゃんと」っていうのはなんなのだろうと。自分の中で、いろいろな考えが持ち上がり、それに振り回されて、時に盲信し、飽きるかまたは失敗して、手放して、ああ間違いだったのかと気づいて、また戻ってくる。グラグラと。