崖の上の修道院 モンセラートの巻

Travel Abroad

バルセロナから電車で1時間ほど揺られたところにモンセラートという場所があります。切り立った崖の上に建てられた修道院があると知って訪れてみることにしました。

俗世から離れ、人の生活の光も音も届かないところで、孤独の祈りを捧げる。谷を通り抜ける風の音だけが聞こえてくるツンとした風の中に、敬虔な修道士の祈りの姿が想起されます。私にはこういう際立った環境に自分を置いてみたいという修道士の気持ちが分からなくもないです。

私はロンドンに住んでいるので、数でいえば何十という教会の戸をくぐり、聖堂の天井絵画を見て、また修道院の匂いを嗅いできました。

祈りとは何なのでしょう?

私たち側の世界。「古池や蛙飛びこむ水の音」。古い池に蛙が飛び込む音が聞こえてきたという単純な句に私たちは深遠な禅の世界を見出しますが、それはむしろ日常ではなぜかその音は聞こえないという反語表現になっています。私はどこかで気づいているように思います。私たちは、日々、方程式の解を解いているのではなくて、私たちはすでに解を持っていて、それを満たす方程式を作っているのではないかと。なぜ祈る時に、なぜ禅の時に、私たちは目を瞑るのか。それは視覚という最大の感覚を切るためなのか?いや、それは見る必要がないからではないか?と。

「西暦880年のとある土曜日、羊飼いたちが岩山から強い光が放たれているのを見つけた。その後も土曜日になると繰り返し強い光が見られたため、光をたどってみたところ洞窟の中で聖母子像を見つけた。現在では「黒いマリア像」(Virgen de Montserrat)と呼ばれている聖母子像である。」このモンセラートの聖堂の中にこの黒いマリア像があります。

先日、ある手記を読みました。自分を取り巻く時間において、「過去」は他人用の自分の時間で、「将来」は自分用の自分の時間 だと書かれていました。はっとする感覚を得ました。

過去の積み上げで自分という基礎を保っていることもあるし、または積み上がった過去を振り返ってやっと自分で自分を認識する面もあります。そういう面も確かにあります。しかし自分の人生が残り数日となった時に、私は将来の数日の方に本当の自分の時間を見つける気がします。他人の評価から解放され、社会の膜から解放されるのは、まさに前方に拡がる時間です。

祈りは、そのような極限の日を待たず、ごく普通の日常において、絶対の存在である神から承認を賜る行為なのではないでしょうか?祈りは社会からの評価を離れ、絶対の存在である神から承認を賜る行為なのではないでしょうか?