ローマにややがっかりするの巻 

Travel Abroad

2021年12月、スペインから帰ってきて約1ヶ月後、ローマに向かいました。ロンドンから飛行機でローマに飛び、電車でフィレンツェに向かい、ピサまで抜けて、あの有名な斜塔でも見て帰ってこようという計画です。友達からはその道筋にはオルヴィエートという丘の上に作られた要塞都市があるからぜひ立ち寄ってみたほうが良いというアドバイスをもらっていましたが、ここまで遊びにいっていると私にも休む日数に限度が見えてきて、あえなく断念することにしました。

ローマは思っていたよりだいぶ燻んでいました。これは私が自分の足で欧州を周って分かった貴重な経験の1つになったのですが、「お、そうかそうか、ローマはこうなのか、うーむ」と心の中で唸ってしまいました。

日本人が新婚旅行でローマに来ると街のゴミや落書きの多さが目立ってそれで「なんか汚い」という感想になると思います。ローマは見るべき建物も豊富、パスタもリゾットも大抵はどこの店も美味しい、ジェラートもある、そこにいる人の人柄も良い、色々揃っているんですけど、街が汚いのがどうも他の良さを相殺してしまっています。インドのバラナシに行って道が汚かったというのとはやはり違うと思います。ここはローマですから。

ローマには古代ローマと中世のキリスト教の世界が混在しています。

一番良い例の1つは、ラファエロの「アテネの学堂」です。私がローマで一番見たかったのもこの絵でした。この絵は面白いです。ラファエロが描いたのだから、描かれた時期は中世ですけど、絵の中は古代ギリシャの世界です。ここの中央に描かれている2人、プラトン(左)とアリストテレス(右)がアカデミアのまさに真ん中の道を、何か議論しながらさっそうと歩いています。ラファエロがこの時代に心底あこがれていたじゃないかと思います。

学堂の中には見ての通り、多くの人が描かれているのですけど、光に溢れた建物の中を、風を切るように歩いてくる2人はまさにアカデミアの王道を歩んでいるような感じがします。非常に開放感と躍動を感じる絵です。

扉は大きく重い。

ところで、この「アテネの学堂」があるのは、サン・ピエトロ寺院の中ですが、ここには絵画だけでなく、ミケランジェロ作のピエタをはじめとして、彫刻も数多く展示されています。

彫刻は絵画と違い、当たり前ですが三次元になっているので、聖書の中の世界、またはギリシャ神話の世界をより「濃厚」に擬似体験できるように意図されたはずです。軽々しく比べると怒られるかもしれませんが、現在でも、アニメの世界をフィギアでも鑑賞したい、またはそれをコレクションしたいという人は大勢いるでしょうから、おそらく同じような動機なのだと思います。私は割り切ってそう整理することにしています。

さて、ローマは見所の多い街です。コロッセオがあり、フォロ・ロマーノがあり、トレヴィの泉やスペイン広場もあります。私も例に洩れず、まるでスタンプラリーのようにくまなく歩いて見て回りました。

フォロ・ロマーノは、紀元前6世紀から建設が始まったカエサルの頃を全盛とする都の跡です。これはこれで見所があり、ローマにいけばコロッセオとセットで見ておいて、まずがっかりはしないと思います。私は私で、結構よく歩いて見て回って、それでもやはり自分はギリシャの遺跡群の方に心が踊ることを実感したことで、来た意味がありました。

沢木耕太郎だったと思いますが、ギリシャのスパルタの遺跡はその徹底的に放置されて風化している様がむしろ歴史の移り変わりと残酷さを伝えてくれる一方で、ローマの遺跡は手が行き届いている分、無理に生きながらえすぎてしまっていると表現していました。私も全く同じ事を感じました。

また、フォロ・ロマーノは圧倒的に都市でした。「ここまで栄えた文明ですら、一回役割を終えると歴史の舞台では2回目の登場はないんだな」という感想が自然と浮かび上がってきます。もちろんこのバチカンのようにローマ文明から2000年近くたっても、この同じ地がまだ文明の中心になっていたとも言えますが、ローマ文明とカトリックの総本山という衣替えが起こっています。

私が見にいった「アテネの学堂」の絵の中に流れる心地よい空気の流れは、またはフォロ・ロマーノにも感じる寛容さは、サン・ピエトロ寺院の時代には、もうなくなってしまっていているかもしれません。私はもちろん多神教の国の生まれなので、多少の依怙贔屓があるのかもしれませんが。